株式会社浅井農園 浅井 雄一郎|みえ次世代ファーマーズ miel(ミエル)

株式会社浅井農園

2013年8月31日登録
浅井雄一郎

三重県津市。関塾東追分から伊勢街道まで続く旧街道を車で走る。伊勢参りで華やいだ時代の面影はさすがに薄れているが、人びとの暮らしは歴史とともにそこに残っている。20分ほど車を走らせる頃には空が大きく開けてきて、緑豊かな土地が目の前に広がるようになる。

5代目、101年目の決断

農場にて

浅井農園の事務所に着いたのは朝8時。空には灰色の雲が広がり、昨夜の雨で地面はぬれていた。

浅井雄一郎さんは、明治40年より植木業を営む「浅井農園」の5代目だ。この高野尾地区は、昔から三重サツキの一大産地として知られていた。そのため、植木業が盛んであり、このあたりにも多くの植木生産者が存在した。しかし、バブル経済の崩壊後、公共事業やゴルフ場などの開発は減り、植木の需要も1/10にまで減少した。かつて400件ほどあった植木店が今では30件ほどになった。

浅井農園の長男として生まれた彼は、子どもの頃からごく自然に自分が家業を継ぐものと受け止めていた。高校時代には別の進路を考えたこともあったが、やはり家業の道を進もうと決めた。そして、大学進学を期に三重県を出てそのまま東京で就職。10年後、家業を継ぐため三重に戻ってきた浅井さんは、実家の植木業が思った以上に苦しいことを知る。

弟が家業を手伝っていたものの、植木業一本では今後の経営は厳しいと考えた浅井さんは、ほとんど経験がなかった農業しかもミニトマトの栽培を始める。2008年、くしくも浅井農園の創業からちょうど101年目のことである。

なぜ、植木業からミニトマトだったのか。小さな赤いトマトには、彼の情熱と希望が詰められていた。

外からニッポンを眺めた、19才の夏

新聞記事
農場にて

「修行に出る気持ちで三重を出ました」。そう話す浅井さんの瞳には、穏やかな中にも経験によって培われた強さが宿っているが、大学に入学したばかりの彼はたくさんの期待と少しばかりの不安が入り混じった目をしていたかもしれない。

大学に入学してすぐ車の免許を取り、喜んでいた。しかし若気の至りというべきか、スピード違反で免許取り消しになってしまう。後悔と自責。沈んでいた頃、夏休みを利用してアメリカの種苗会社でインターンとして働くチャンスが巡ってきた。落ち込んだ気持ちをリセットするため、そして生ぬるい生活を送っていた自分を叩き直すため、19才の夏にアメリカに渡った。そこで見聞き得た経験は以降、彼の人生哲学の中核をなすものとなる。

働いていたのは花や植木の苗生産を行う会社で、そこで苗木の増殖方法や挿し木、接ぎ木などの技術を働きながら学んだ。会社がシアトルに近く、まだ日本になかったタリーズコーヒーやスターバックスコーヒーをよく利用していたという浅井さんは、「あのとき自分に商才があってスタバを日本に輸入していたら、今ごろはねえ…」と笑う。

アメリカで働いてみて気付いたのは、アメリカ式農業と日本の家族経営農業との違いだった。アメリカの農業は企業の行う大規模ビジネスであるため、非常に合理的な運営がされていて、管理者と労働者が明確に区別されている。管理者が広大な農場をバギーで走り全体を管理・統括している一方で、メキシコなどからの移民が多数を占める季節労働者たちは、決められた仕事を決められた時間内に終えて家に帰る。

日本の農業は今のままのやり方でいいのだろうか。ともすれば一農業者の肩に負担がかかるような日本の農業経営の仕組みに疑問を感じた浅井さんは、その後も大学の休みを使って、バックパッカーをしながらヨーロッパ・アジアを一周し、世界の農業に対する見聞を深めた。田舎を中心にバスで移動しながら、各地の農業従事者と交流ができた貴重な時間だった。

ともに未来を作る人たちと

農場にて

日本に戻り、就職活動を始めた。「日本農業の競争力が低い原因は農協組織を中心とした構造にある」と考えた浅井さんは、農協や農業関連企業の経営コンサルティングを行う仕事を選んだ。しかし、青く未熟な若者の野望はあっけなく踏みつぶされる。農業という規制産業に風穴を開け、新鮮な風を吹かせるにはあまりにも力が不足していた。

最初の会社は1年半で辞めた。それから、環境・リサイクル分野のベンチャー企業に入社し、事業の立ち上げから関わることになった。2000年以降、次々とリサイクルに関連する法律が施行され、循環型社会の仕組みをこれから作り上げていこうとする時だった。「優秀な若者が数人で立ちあげた会社なんですが、特に社長はとても頭の切れる人でしたね。環境やリサイクル分野は農業と同じ規制産業ですし、この会社での経験は勉強になりました」。この会社では、環境・リサイクル企業の経営支援業務や、この分野への新規参入を考える企業の事業開発支援業務に携わっていた。これから伸びる産業の黎明期に、レベルの高い人達とともに切磋琢磨した約3年半だった。

ちょうと同じ頃、盟友ともいうべき人物との出会いがあった。東京の同じ街に住んでいて同い年、共通点もたくさんあった小平氏だ。農業ビジネスについて語り合い、意気投合していく中でお互いの目指すところが一致した。しかし、志は高くても農業ビジネスに関しては2人とも手探り状態。まずはアグリビジネス研究会という勉強会を立ち上げ、農業者や農水省の官僚、大学教授などを講師として招き、学び、教えを請い、知識を貪欲に吸収していった。やがて、SNSを通じて全国の若手農業者にも勉強会やセミナーに参加してもらうようになると、そのネットワークは全国に広がっていった。

2007年、2人は農産物の企画開発商社である「オリザ」を立ち上げる。

日本の農業を変えたい。19歳のときに浅井さんがアメリカで感じた思いは、志の高い農業ビジネス集団というかたちで世に姿を現し、彼らはそこに日本の農業の未来を託した。「ゼロの状態からのスタートだったので、2人で広告やフリーペーパーを作ったり、リヤカーを引いて野菜を売ったりマルシェを開いたり、考え付いたことは全部やりました」。2人の青年が日本式農業ビジネスの構築を目指してつくった会社は、その後たくさんの人を巻き込み、現在200人近いネットワークを持つまでになっている。

トマトは好きじゃなかった

農場にて農場にて

オリザを立ち上げた当初、浅井さんは農業技術を学ぶため、静岡県の肥料会社でミニトマトの試験栽培と栽培方法のシステム化などを行っていた。浅井さんがぼそっとつぶやいた。「じつはもともとトマトはあまり好きじゃなくて…。でも、このミニトマトを食べたとき、おいしいと思ったんです。これだと思いました」。なるほど、トマト嫌いが好きと答えるトマトこそ、万人に愛されるトマトになのかもしれない。

浅井さんは、このミニトマトをオリザの商品にすべく、全国どこでも栽培が可能なブランドトマトの開発を始めた。自身も三重県に戻り、ミニトマトの試験栽培を始めることにした。

ここで話は冒頭に戻る。各地での修行を終え、10年ぶりに戻った実家の植木業は長引く不況のあおりを受け、思った以上に苦しくなっていた。そのため、まずは植木業を立て直すことが急務だった。昼間は植木の仕事を一生懸命に頑張り、時間の空いたときには古い温室の鉄骨の錆をこすり落としてペンキを塗る。ミニトマト用の新しい温室を建てるお金がなかったためだ。

「トマトなので赤色に塗ったんですけど、光の利用を考えれば白色にすればよかったかなぁと。最初の2年間は赤字でした。新しい温室を建てるのにお金がかったし、続けるほかなかったっていうのもありましたけど、やめようとは思わなかったです」。

あるとき、植木の仕事で懇意にしてもらっていた地元スーパーマーケットの創業者に、育てたミニトマトを試食してもらうことになった。創業者が赤く照り輝くミニトマトを口に運ぶ。「おいしいね、これならうちで扱ってもいい」。こうして販路が決まり、浅井さんは事業を続けていく自信をつけることができた。

三重でつながる濃いネットワーク

浅井農園の人々浅井農園の人々

三重に戻ってからの浅井さんは孤軍奮闘していた。オリザの仲間は全国にいるがみな忙しく、距離の問題もあってすぐに集まって話をすることができない。「野菜栽培の経験がなくて師となる人もいないし、わからないことは周りにひたすら聞いて回っていました。素人でしたし、馬鹿になって何でも聞けました」。

そうして一人で頑張っていた頃、東京時代の知人の紹介で三重大学の西村訓弘教授と出会い、どんなネガティブな状況においても常に解を出す、教授の考え方に感銘を受けた。その後、西村教授に勧められ、三重大学大学院地域イノベーション学研究科に入学した浅井さんは、同科で学びながら研究を行う地元企業の経営者達と話をする中でさらに意識が変わっていく。

「(具体的にどう意識が変わったか)三重県というローカルな場所からでも、世界で通用するようなビジネスを展開していけるという希望を持てるようになりました。

三重大学だけでなく県庁や県の研究所、地元企業の方にもずっとお世話になっています。“20代でがむしゃらに頑張っているけど報われていない“みたいな僕は、ちょうどかわいがってもらえるタイミングだったのかなと思います」。

近年、農業に関心のある若者や他業種からの新規参入者が増えている。しかし、農業法人に就職したとしても一般的な企業ほどの待遇は望めず、辞めていく人も多い。

「待遇条件を改善するには、品質と生産性を高め、規模を拡大して稼ぐしかない」というのが浅井さんの信条だ。「温室を増やして生産量を拡大し、一年中ミニトマトが収穫できるようになれば、雇用ができて人材も育てられる。国からの補助金に頼るのではなくて、農業をビジネスとしてやっていかないといけない時代に来ているんです」

今後は三重県内で同じ目的意識を持つ農業者らと濃いネットワークを作り、販路拡大を狙いたいと浅井さんは話す。miel(ミエル)という新しいステージで彼らの挑戦は始まっている。

スピードを上げて、目指す高みへ

未来に向けて

現在、浅井さんは三重大学大学院との連携により、ミニトマトの品種改良にも着手している。品種改良には長い年月と努力が必要だが、完成すれば浅井農園の独自品種として世に出る。

常に新しいものを開拓し、新しいモデルを開発していこうとする彼の目線は、はるか先、自身の目標に向けられている。そこに早く到達するために、イスラエル、オランダ、ベトナム、香港、シンガポール、果てはアフリカまで技術開発やマーケット開拓のために足を運んでいる。「日本の農業の成功モデルになりたい」と浅井さんは語るが、それはドリームではなく目指す場所までの通過点である。

株式会社浅井農園 浅井 雄一郎

株式会社浅井農園

代表者:浅井 雄一郎
所在地:三重県津市高野尾町4951
TEL:059-230-1212 FAX:059-230-1214
HP:http://www.asainursery.com/

生産物:ミニトマト・トウモロコシ・植木
ミニトマト01 トウモロコシ01 植木01 ミニトマト02 ミニトマト03 ミニトマト04 ミニトマト05

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